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「屋上の風景」

元々「閉所恐怖症」に「高所恐怖症」、それにオーウェルの「1984年」で「ネズミ恐怖症」も加わった。いい画廊だと分かっていても、地下だと、なるべく早く外に出たい。映画「ベン」などは、うなされるから二度と見ない。しかし、3つのうちで「高所恐怖症」だけは改善しつつある。

今度の家には屋上があるが、階段を作ることができなかったので、そこからの風景を見るためには梯子を登らなければならない。本当は怖いので、昔、鉄塔に登っていた人の注意を思い出す。「落ちたら怖い、と思うでしょう?逆に考えるんだ、、、今、こことここを持っているから、落ちる筈はない、、、そう思いながら登っていくんだ。」なるほど、と思い、大丈夫、大丈夫、、、と自分に言い聞かせながら、登り降りしている。私の年齢を考えると、無謀と言われても仕方ない。

しかし、屋上の風景は、ほぼ360度の視界、開放感が違う。西の空の夕焼け雲は、描きたいなあ、と思う日もあれば、信じられない形になり、ウサギだ!あっ、クマになった、、、という日もある。本当だってば、と言ったって、信じてもらえそうもない。リアリティーって何?という気持になる。

頭上には月。いつも凛としており、画面に欲しいのは、この空気だよ、、、と思う。夜の空は案外明るくて、雲がどんどん流れていく日もあれば、一面の鰯雲が動かない日もある。1光年の星の光は1年前の光だとすると、私は今、30億年前、50億年前の光を見ているわけで、自分に残された時間はいくらもないな、と分かる。

30年居た街から広いアトリエを求めて越してきた。絵を描くだけの私とは違い、遠くに見える窓の明かりには、それぞれ、家族の暮らしがあるのだろう。駅から遠くて不便だと思っていたが、上から見ると、緑の多い、自然に囲まれた場所だ。東の空に沢山の鉄塔が立っている。自然の一部でもなく、人間の一部とも言えず、あれらは一体何なんだろう?

これまでのこと、これからのこと、寝ころがって、時々はビールを飲んで、ボーッと考える。
こうして屋上に登り、日常の外に出ることが、いつの間にか、私の生活に不可欠なものになりつつある。
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「日陰の植物」

築30年以上の古家を建替える時、そこにあった樹木をなるべく切らないようにした結果、楓や梅、柿などが枝を広げることになり、日陰を好む植物ばかりが増えた。

おだまき : 麻の糸玉からついた名前の山野草。ハート型の葉が3つ寄せ集ま       り、ピンクや紫、チョコレート色もある。
ぎぼうし : 葉に縁取りのあるもの、ないものがあり、葉だけでも美しいが、       初夏から夏にはするすると花芽が伸び、うすい藤色の花が咲く。
蛍袋   : カンパニュラ(小さな鐘)とも言う。初夏に釣り鐘状の花が下向       きに咲く。蛍を閉じ込めてみたい気もする。
おきなぐさ: 日本古来の花。三橋節子さん「湖の伝説」で知った。葉や茎、実       が白粉をふいているようで、「翁」の名にふさわしい。
ほととぎす: 赤味を帯びた古代紫の花。斑点があり、形が鳥のほととぎすに似       ていることで名付けられたそうだ。典型的な秋の花。
水引   : 群生する。以前、この花についてブログに書いたことがある。前       の家から持ってきた。
かたくり : ハート型の葉がつらなり、春、下向きに可憐な花をつける。我が       家のは白いがピンクもある。
襲名菊  : 「秋明菊」とも書き、秋まっさかりに咲く華やかな花。私は一重       の白が好きだが、ピンクも八重もある。はらはらと見事な散り方       をする。
吾亦紅  : すすきの横にはやはり吾亦紅だ。花は新鮮なものほど先が紫を帯       びているが、古くなるに従って焦茶一色になる。 秋、籠にすす       き、吾亦紅、りんどうを生ける幸せ!
つわぶき : ぶ厚い葉が「私の高さはここ」とばかり地面近くを被う。黄色い       骨太の花をつける。
蕗    : これも地面近くを被うが、もっと薄い葉。雨が降ると雨粒が転が       る。春先のフキノトウが楽しみ。

一般に、植物には日光が必要、と考えられているが、そうとばかりは言えなくて、これらの植物は、朝の光、あるいは夕方の光だけで充分だ。あまり日が当たると枯れてしまう。光を浴びて元気で咲いていく花もあれば、あまり光が当たらない方がいい花もある──ということを覚えておきたい。我が家の繊細な花たちは、それぞれ、自分にふさわしい場所で、毎年静かに咲いて、散っていく。
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「新聞の切り抜き」

「アナログ人間」と言われそうだが、ふとしたことで始めた「新聞の切り抜き」をもう40年以上続けている。これは何かある、と思った記事に日付をつけ、切り抜いたものを箱にためておく。一杯になると、スクラップブックに貼る。それだけのことだ。一つ一つの記事をスキャニングし、テーマごとに分類し、必要に応じて取り出せるところまでなさる方もいらっしゃるらしいが、そんな面倒なことはできない。私の方法は、大体同じ時期のものを順番もなく、貼るだけ──形も大きさもバラバラなので、空いた場所には、小さなコラムや俳句、海や山、空や街の写真などを貼る。

10年も経った古いスクラップブックをめくると、何もかもすっかり忘れているのだが、自分のアンテナを通ったものだから、読み直すと面白い。それが私の絵に、直接、影響を及ぼすとは思えないが、ふと湧いてくるイメージが、ただの思いつきか、作品として自立しうるだけの強度を備えているのか、判断する際、役に立っているような気がして続けている。

それに、どうも元気が出ないと思う時、私はまず熱いお茶を入れて、古いスクラップブックをめくりながら、小さなコラムに感心したり、笑ったり、既に亡くなられた方を偲んだりしてひと時を過ごす。そのうちに自分が生きてきた時間が少しいとおしくなって、いつの間にか元気が出ていることに気づく。「こんなことではいけない!」と怒っている時もある。怒ると、それはそれでエネルギーが出ている。

最近、若い人で新聞をとらない人が増えているそうだが、何だかもったいない。日々の記事は、そのままでは、ただの情報だが、自分のアンテナに引っかかったものは、もう、ただの情報ではない。
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「好きな作品」

様々な作品が好きで、そこに共通点を見つけることは難しいのだが、あえて言えば、皆、どこかシンプルでストレートだ。画面が複雑であればある程、卓越した技術や手法を見せることができるわけだが、好きだなあ、、、と思う作品は、見たとたん衝撃を受け、よく見れば、それがしっかりした技術や手法に支えられていると気づく、、、しかし今は、この最初の印象に浸っていたい、、、そう思わせるものだ。

思いつくまま挙げてみる、、、アッシリアのライオン、エジプトの書記座像、カタロニアのイコン、ファン・デル・ウェイデンの「アヴィニオンのピエタ」、P. プリューゲルの「雪の中の狩人」、セザンヌの「カード遊びの男たち」、モディリアーニの「横たわる裸婦」、ゴッホの「夜のカフェテラス」、ルソーの「蛇使いの女」、シーレのデッサン、ベン・シャーンの麦や人、アバカノヴィチの背中、ブランクーシの「鳥」、ジャコメッティーの歩く人や立つ人、キーファーの「革命の女たち」、、、これらが共通して持つシンプルでストレートな印象に私はあこがれる。

作品に最初のイメージをもたらすものは「想像力」や「感性」だろう。しかし、その後かれらはどうしたんだろう?最初のイメージを洗い直して、全ての人に届くような普遍性のあるものにする過程があったはずだ。「自己陶酔」も必要だろうが、「自己批判」も必要だったろう。そして、かれらの主観が客観を通り抜け、最初の印象を残したまま、できうる限りの検証を終えて、作品は出来上がったのだろう。

そう考えると、人間って、やはりすごい!
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「さくらクレパス」

夕焼け空を描きながら「さくらクレパス」のことを思い出した。戦後間もない頃、幼児の私に初めて与えられた「さくらクレパス」12色のことである。新しい箱を開け、きれいに並んだ、まっさらなクレパスに出会う──あの幸福感はたとえようもない。日本中に「もの」がなかった時代で、クレパスは貴重なものだった。

12色というのは、1. 白、2. 黄、3. 黄緑、4. 緑、5. 茶色、6. 水色、7. 青、8. もも色、9. 赤、10. 肌色、11. 灰色、12. 黒、である。幼児が初めて出会う色としては、少し原色が多すぎるようにも思うが、この組み合わせを選んだのには、それなりの理由があるのだろう。幼児期、私はこれで花や動物、人や家を描いたはずだが、覚えていない。

私の記憶にはっきりと残っているのは、小学校1年生の時買ってもらった「さくらクレパス」24色で、いきなり増えた12色は、1. レモン色、2. みかん色、3. だいだい、4. 黄土色、5. 焦茶、6. 朱色、7. ふじ色、8. 紫、9. 深緑、10. ぐんじょう色、11. あいいろ、12. くちば色、である。これは、絵の好きな1年生には、世界が何倍にも広がるような事件だった。紫色と黄土色、、、焦茶とふじ色の組み合わせもいいなあ、、、ぐんじょう色とくちば色、、、なんて大人!クレパスは私の格好の遊び相手になった。

もったいないので大事にしつつも、使うと減る。紙を剥いて、さらに使い込んで、1cm 未満になり、最後は指先で練り潰すようにしてなくなる。しかし、当時、街の文房具店にも、学校の購買部にも、バラ売りはまだ基本の12色だけで、「くちば色」なんてなかった。

私は何とか残りのクレパスで「くちば色」を作ろうとした。黄緑に少し焦茶を混ぜてみる。濃すぎるので白を加える。そのうちに、これだよ!と作り出せた時はうれしかった。おまけに、少し黄色を加え過ぎたり、少し緑を加え過ぎたりすると、様々な「くちば色のヴァリエーション」が出来て、集めるときれいだった。

それ以来、私にとって色を混ぜることは日常的な習慣になった。私の爪は、入り込んだクレパスのせいで、いつも汚かったし、ブラウスもスカートもあちこち汚れていたが、気にならなかった。三原色と白があれば、全ての色が再現できることを知って、充分満足だった。

その時の体験があるからだろう。夕焼け空に様々な色を塗っているだけで、子供の頃の自分がもどってくる。
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「千の種族」

今年1月からずっと「千の種族 A・B」をキャンバスでやり直しています。2001 年に描いた作品ですが、レイヤーを重ねるうちに支持体の和紙が保たなくて、皺が出てしまいました。この二つは私にとってストライク・ゾーンにある作品で、どうしてもやり直しておきたかったのです。

しかし、加筆ということではなく、最初からもう一度、ということがどんなに困難なことか、思い知らされました。元のよりよくならなければ、やり直す意味がないからです。3月までは全然駄目、、、アトリエに入るのが苦痛になりかけていました。4月に入ってからはもう必死で、ようやくストライク・ゾーンに収まってきたところです。

今、余力がないので、約5年前2007 年に鈴木ユリイカさん編集「Something 5」に書いた「千の種族」についての拙文を転載します。

「千の種族」 1996~7 年にかけての記憶をたどると、スピードのあるサイバーアートの映像を見ているような気持になる。25 年連れ添った夫に癌が見つかり、1年後に他界するまで、納得もできないまま、ただ流された。 内に子供の未熟さが残る私にとって、彼は夫であると共に、半ば父親のような存在でもあったから、フワフワと身体が頼りなかった。頑固者で葬儀を断り、ホスピスから「最期の挨拶文」を郵送して逝ってしまった。 残された私は、晴れている限り毎日多摩川に出かけた。ただ夕暮れを見て帰ってくる。それで何とか日々をやり過ごした。 陽が沈むと岸辺が燃え、地面に熱が残る。鳥たちがすばやく飛び去り、人影が屹立する。 その時の風景が「千の種族」になった。「25 時のアリア」と共に、この時期を経てようやく私は、未熟でも何でも、自分の心を直接表現する回路を得たように思う。 「表現とは作品の泣き顔のことなのだ。」と言ったのはアドルノだが、私の作品も状況のせいで、幾分かは泣き顔に近づいたのかもしれない。 あれから10 年、夫は何をしたかったのか、私と居て幸福だったのか、ホスピスという私達の選択は正しかったのか、終りのない問いかけが続く。 今、私は風景をより客観的な視点で捉えようとしていて、そのことに迷いはないのだが、時々、あの頃のような切実さを持っているか、と自問してみる。                    
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「鳥、鳥たち」

風景を眺めていると、動くものと言えば、鳥です。鳥を見つけると、私はつい、「あ、鳥だ、、、」と呟いてしまいます。枯枝を揺らす孤独な鳥、川面を蹴散らす、勢いのある鳥、、、鳥、一羽で風景は随分変わります。また、夕焼け空を渡っていく鳥たち、鎮守の森の上で群れ騒ぐ鳥たち、、、集団の鳥は、不思議に過去を甦らせます。記憶の中で、鳥や鳥たちは、その時の風景と、どうしようもない私の心とを結びつけ、ある解放をもたらしてくれました。

2011年の個展で発表した「処理工場の夕暮れ」(2010)や「V字鉄塔のある惑星(2009~2011、1月)にも鳥は居ます。2009〜2010年、私はこのシリーズを描きながら、これらを受け入れ難いと思う人がたぶん居るだろう、と予想していました。原子力発電所も高電圧の鉄塔も、それまでの美術にあまり登場しなかったものでした。

私はこの二つを「人間の文明が産み出してしまったもので、既に存在する以上、そこから出発せざるを得ないもの」として、あえて描くことにしました。今、私たちが直面している状況とは、「できれば見たくないもの」に、自分たちが既に組み込まれてしまっていたり、「見ないふりをしてきたもの」に対面せざるをえない状況ではないか、と思ったのです。状況そのものを描くというよりも、その状況における人の心を描きたかった。そこで人はどんなことを思うのか、どんな言葉を発するのか、「あ、鳥だ、、、」と呟いて立ち尽くす人──その心の奥にあるものが出たらいいな、と、それだけを思っていました。現実を抽象化した象徴的な作品のはずでした。

2011年3月、震災に伴って福島の原子力発電所の事故が起こり、この二つのシリーズは、それ以前とまったく違う、とても具体的な空気を持ち始めました。完成したとたん、作品は作家の手を離れて、独自に歩き始める、というのは本当です。

いつか、長い時を経て、「現在」が、すっかり「過去」になった時、私はこの二つのシリーズの前に立ってみたい。これらが私の手を離れて、結局はどこへ歩いていったのか、確かめてみたいのです。
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「K高校美術部」

淀川辺りにある高校の美術部に居た。部室に続く美術室は3階東の角にあって、放課後、晴れていれば夕焼けが見えた。建てられてから一世紀以上経つというレンガ造りの校舎は、無数の人間の汗と油と埃の臭いがした。

顧問の O 先生は、「美術部に入ろうと思った時点で、その資格がある。」と、部員全員の美術の成績を5になさったので、皆、どこかのびのびと活動していた。倉庫には、ベニア板に先輩達の描き残した絵が、100号から200号まで、沢山並んでいて、好きなのを選んで表面を削り、またその上に描くのが習わしだった。油絵の具も紙も使い放題、部室はある種の「解放区」だった。タバコを吸う先輩も居たし、文化祭の前に秘かに泊まり込む部員も居た。見つかったら停学処分と聞いていたので、何だかドキドキ、ワクワクした。

私はカッコつけて、抽象を描いていた。O 先生はほとんど批評はなさらないで、毎回私の絵をじっと眺め、「まあ、もうちょっとやってごらんなさい。」とおっしゃるだけだった。もうちょっと? 私は言われたように、もうちょっとやってみるのだが、しばらくすると、また、「まあ、もうちょっとやってごらんなさい。」と言われる。高校生の私は、ただ感覚だけでやっていて、内に確固たるものもないものだから、そのうちに、自分が何を描こうとしていたのか迷い出してしまうのが常だった。自分では好きなはずの絵に、何故必然性を見出せないのか、、、というのが、私の隠れた悩みになった。

放課後、下校時刻ギリギリまで描いた上に、食堂で天そばまで食べたりすると、さらに遅くなる。すると校門までの 30m で定時制の生徒とすれ違う。こっちは親のおかげで晝間勉強させてもらって、部活までやって帰る。帰れば夕食が待っている。あちらは一日働いて、これから勉強だ。すれ違う 30m の間、私はとてつもなく恥ずかしかった。

後に、再び絵を描くようになって、私が最も重要視したのは、これを生涯続けることができるのか、、、あの、既に亡くなられた O 先生に、「まあ、もうちょっとやってごらんなさい。」と言われても、自分で納得して、「いや、先生、これで終わりです。」と言えるのか、、、さらに、一日働いてきた人に絵を見てもらった時、恥ずかしくないか、ということだった。

絵を「色、構成、マチエールでできた美術作品」ということだけでなく、「この時代とこの世界に属している、人間そのものの理解と実感を伝える役目がある。」と私が思うようになったのは、きっと、あの淀川辺りの高校でおこった全てのことのせいだ。
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「Amy Winehouse : Back to Black」

2009〜2010年、2年間の仮住まいで最もよく聞いていた CD は Amy Winehouse の「 Back to Black」 だった。仮住まいは、アトリエになる10帖があったことで即決した古い一軒家で、夏暑く、冬寒く、お風呂場の床に水が溜まった。でも狭い食堂からポーチを経て庭へと続く空間は居心地がよく、私は、毎夕、この CD を聞きながら珈琲を飲んだ。丁度「V字鉄塔」と「処理工場」を描いており、Winehouse の傷だらけの太い声は、「自分の感覚が、そう間違っているハズはない。」という空気を届けてくれるのだった。「リハビリ」、「私ってマズいよね、、、」という歌のタイトルでも分かるように、薬中でアル中、最後はひどい状態だったようで、本人の希望どおり27才で逝き、伝説のシンガーの仲間入りを果たした。

一つの枠組みに自分を上手に当てはめることのできない人、あるいは枠組みから押し出されてしまった人というのは、あらゆる時代、あらゆる場所に必ず居る。そして枠組みの中に留まっている人だって、明日のことは分からない。芸術は、そういう人の心を先取りしていくのが宿命ではないだろうか。彼女が逝った今、その声に静かに耳を傾けると、才能がある、とはこういうことだ、と私はいつも思い知らされる。
http://www.youtube.com/watch?v=P6wRIQZ5y5Y&feature=fvwrel
http://www.youtube.com/watch?v=2tjNEK31O8E
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「お雑煮」

新年に、皆様のご多幸をお祈り申し上げます。
また暮れの京橋ASK?での個展にお出掛け下さった方には、御礼申し上げます。

私たちはお正月に色んな思いでお雑煮を食べます。お雑煮は、地方によって、ご家庭によって、それぞれ異なるようですが、大きく三種類に分けられるそうです。京都を中心とする関西は「味噌仕立て」、関東、中国、九州は「澄まし仕立て」、小豆雑煮で祝う地方もあるそうです。

我が家では、正月三が日に、この三種類のお雑煮を全て食べます。

元旦は、夫の実家の習慣を受け継いだ「白味噌仕立て」──丸餅と鶏肉に、里芋、人参、大根等の野菜の角をとったものを加えます。白味噌に普通の味噌を少し足して、セリ、柚子で仕上げます。

二日は、これも夫のたっての要望で、「小豆雑煮」です。と言っても、ほんの一杯づつなので、小豆から煮る手間を省き、小倉あんや缶詰で簡単に済ませます。これを食べながら、「お父さんの子供の頃は、これが立派な食事だった。」と、彼は必ず子供達に言って聞かせました。もう何回も聞いた話なのに、息子は黙って頷きました。娘は、おぜんざいが大の苦手で、大急ぎで塩昆布をつまみ、煎茶を飲んで耐えていました。

三日は、私の実家の「澄まし仕立て」がやっと登場します。角餅に鶏肉、海老、ウズラ卵、椎茸の甘煮、蒲鉾、ほうれん草、三つ葉、柚子を加えます。お雑煮は出汁で決まるので、私は暮れに昆布、椎茸、花カツオで丁寧に出汁をひきます。

夫が他界して15年近く経ちました。彼を失った翌年のお正月、そこから今に至る全てのお正月に、私は、夫の居た頃と同じように、三が日、三種類のお雑煮を作り続けています。
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